師範大学からほど近い、台北のリノベーションされたばかりの旧刑務所の跡地に行ってきました。
和風の瓦屋根の建物が道路沿いに200メートルほど続いていて、おしゃれな雑貨屋やドリンク・コーヒーショップ、和食屋、甘味処、和服撮影などのテナントが入っています。
思ったほど大きくはなく、ここで飲食しなければ30分もあれば見て回れるくらいです。
日本の観光地のミニサイズのような感じのおしゃれな観光スポットです。
リノベーションで観光スポットに
ここは元々、かつての日本統治時代に台北刑務所に隣接する管理宿舎として使われていました。
戦後も監獄の宿舎として看守たちに使用され続けたようです。
建物の内外の保存状態が良く、浴場を含め当時の日本建築の特色が残されていたことから、台北市の歴史的建造物として登録されました。
補修工事によりリノベーションされ、現在は旧日本時代の面影が感じられる観光スポットとして若者たちの人気を集めています。
元々、主な入口は西側にあり、北側には刑場があったそうです。今残っている旧宿舎は全体の南側に位置していたそうです。
昔懐かしい厠屋根の木造建築の宿舎だったんですね。
旧宿舎内はテナントになっていて、いろんなお店が入っています。
こちらは雑貨屋さん。
下はしょうじと畳のある和食店です。
入口でちゃんと靴を脱いで入ります。
抹茶そばが250台湾ドルです。
他にも最低の消費額が1,000台湾ドルの高いコーヒーショップなんかもあります。
旧台北刑務所の歴史
この旧刑務所は1896年に設立された「台北監獄署」が、1904年に現在の場所に移設された際に建てられたものです。
そして1975年に移設されるまで使われ続けました。
その後、2013年に「旧台北刑務所官舎」として歴史的建造物に指定されます。
2018年に修復工事が始まって2022年に完成しました。
入札により逸居股份有限公司という会社が台北市の「文化保存」の理念に沿って設計・補修を行い、この建築群の運営を行っています。
監獄建築設計者 山下啓次郎
1897年から1899年(明治30~32年)に、日本の5大監獄(千葉監獄・奈良監獄・長崎監獄・鹿児島監獄・金沢監獄)および台湾3台監獄(台北監獄・台中監獄・台南監獄)などの監獄建築設計案に加わる。
1894年に「獄舎の改良計画」を提起。台湾の3大監獄の設計基準には以下のものがある。
平面配置:「ペンシルバニア式」監獄を原型とし、放射状の獄舎と中央監視塔を配置
物理環境:採光、通風を重視。舎房は中央廊下の両側に舎房を配置。
建設費用:建設費用の足りない場合はレンガ造りとする。台北監獄の建築においては囚人労役の製造工程で使う赤レンガを利用する。
拘禁関連:日中は囚人らは工場内で働き、夜間は独房で過ごす。
台北監獄制度の改善を推進 志豆機源太郎
志豆機源太郎は、1907年9月に台北監獄長に転任になり、1931年まで23年間務めた。刑務所管理において経験を持ち、獄舎の改築、受刑者の教育などの手法で台湾の刑務所制度を改善し、受刑者の感化において顕著な実績を残した。
感化教育
1897年より教員を配置したが、初期は困難に見舞われた。1900年以降は幾度も恩赦・仮釈放など温和な手段により教育効果が徐々に表れる。
獄中教育
初期には小学校レベルの教育を実施し、中期以降は実物教育や学級別を取り入れた。1911年からは専任教師を置き、学力テストを実施し、歌唱教育で情操の育成をした。
衛星と健康習慣の改善
環境と個人の衛生
歯科衛生、食器の消毒、便器の清掃などの衛生概念を普及。受刑者の理髪、入浴、運動等の習慣育成を重視した。
飲食における健康
労働者の労働量に応じて食事量を分けた。副食は自給自足を原則とし、食物の種類の交換をして衛生や栄養バランスを重視して病気の予防に努めた。
産業における専門技術の学習
技能の育成と制作成績
刑務所の開設初期から作業係を置き、受刑者の作業を管理して労働の種類や労働賃金システムを徐々に整備した。
指物(さしもの。外側に組み手を見せず、釘も使わずに組み立てられた木工品)、洋服の裁縫、竹細工などは、台北刑務所のよく知られた製作品で台北の陳列会で優れた販売成績を残した。名古屋市関西共進会で展示された帽子と指物は、それぞれ一等賞と二等賞を獲得した。
抗日事件における刑執行
かつて刑務所の北側には刑場があり、ここで抗日運動に関与した人物が処刑されています。
釈放日に記念撮影
下は1924年2月18日に撮影された釈放日の記念写真です。
帽子をかぶっていないのが釈放された元囚人、帽子をかぶっているのが迎えに来た人たち
1970~1990年代 蚤の市が賑わう
刑務所の移設後、ここで蚤の市が開かれるようになり、大勢の庶民で賑わう場所となりました。
簡単に訳すと以下の内容になります。
日本統治時代の台北刑務所付近の地区は監獄に面していたため、世間では「監獄口」と呼ばれていたが、戦後は「華光社区」として知られるようになった。
この「監獄口」は、ここで面会者が受刑者に送る物資を購入することから、周辺に旅館、果物屋、麵屋が立ち並ぶようになった。
戦後、日本宿舎は司法関連の家族宿舎となった。また、大陸住民が本地区に移り住むようになり、牛肉面店、豆腐店、老麺焼餅店、小籠包といった大江南北省の店が立ち並ぶ庶民に愛される多元化的な飲食街となった。
1970~1990年代には、他の地区の住民がこの華光地区に移り住むことで廉価な蚤の市が誕生し、書画や古い書籍、家電品、古本、レコード、工芸品・装飾品、年代もののカメラなどあらゆるものが揃う市民で賑わう有名な中古市となった。
本地区は日本統治時代の刑務所のある「監獄口」としてのその暗い時代から、戦後を経て様々な土地から移民してきた人々の住む庶民の「華光社区」とへ移り変わった。現在の都市の容貌からは、都市空間の意義ある変遷の過程が感じられる。台北市政府文化局は本地区の都市の変遷に関して市民の記憶に残る歴史的建造物として台北刑務所官舎の修復・再利用計画を推進している。
アクセス
中正記念堂⇔旧刑務所 徒歩11分
地下鉄「古亭」駅から徒歩9分
地下鉄「古亭」駅から徒歩9分。
5番出口を出てそのまま直進します。
金山南路二段という通りに出たら左折します。